ブックタイトルtakenakadaikudougukan-news_Vol39

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概要

takenakadaikudougukan-news_Vol39

ジャズはアメリカで複雑な人種の坩るつぼ堝といわれた港町ニューオーリンズで1900年頃に誕生した音楽です。かつて移住した欧州系白人と黒人との混血クリオールとアフリカから奴隷としてつれてこられた黒人が奏する音楽から生まれたブルースに端を発し、ピアノの軽快なタッチで奏するラグタイムにトランペット、トロンボーン、クラリネットなどの西洋楽器が加わったといわれています。そして、ジャズはアメリカ各地、そして欧州や日本を含むアジアへと世界的に広まりました。日本でも、アメリカ発の新しい音楽は、港町を中心に、主にダンスミュージックとして広まりました。日本人による演奏は、1912(大正元)年にアメリカ行きの東洋汽船に乗り込んだ東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)の5人の卒業生が嚆こうし矢で、この時アメリカで楽譜を大量に買い集めて広まりました。日本でも船で演奏するための楽団がたくさん誕生しました。船の楽団で経験を積んだ波多野福太郎は船を降りて「ハタノ・オーケストラ」を結成します。そこに参加していた井田一郎(ヴァイオリン)が、1923(大正12)年に結成した「ラッフィング・スター・ジャズバンド」が日本初のプロのジャズバンドといわれています。ディキシースタイルで、神戸オリエンタルホテルや東亜ホテルに出演していました。このことが、神戸が日本のジャズの発祥地とされる所ゆえん以です。当時の日本は関東大震災(1923)後のいわゆる大大阪時代。日本最大の経済都市大阪と東洋一の港町神戸には多くの経済人や文化人が住み、西洋文化の華が大きく開いていました。ジャズの流れはここで関東から関西へと大きく舵をきることになります。劇場やダンスホール、ホテルや港に停泊中の客船では、アメリカ発のハイカラ文化として盛んにジャズが演奏されていました。1926(大正15)年、大正天皇崩御のため、大阪のダンスホールが1年間停止となり、翌々年コロンビアとビクターが東京でジャズレコードの製作をはじめると、ジャズミュージシャンは挙って東京へと移動してしまい、関西のジャズシーンは一度冷え込みます。さらに1937 (昭和12) 年に日中戦争が始まると、洋楽であるジャズは演奏されなくなってしまい、多くのミュージシャンが上海へ移住してしまいました。しかし、ジャズは戦後になって阪神間の進駐軍キャンプを中心に復活します。神戸では新開地に「ウエストキャンプ」、三宮の南に「イーストキャンプ」がありました。また、外国人専門バー、キャバレー、ダンスクラブなど、演奏の機会に事欠かない状態でした。キャンプ出身のミデキシーランド・ハートウォマーズ レコードジャケット神戸とJAZZ10FEATURE