ブックタイトルtakenakadaikudougukan-news_Vol38

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概要

takenakadaikudougukan-news_Vol38

5つの「実験住宅」─ 自ら興し理論化した環境工学藤井は恵まれた財力を生かして5つの自邸を実験的に建てています。竹中工務店に在籍していた大正6年(1917)、神戸市葺合区熊くもち内に第一回自邸を建設。翌年には出雲大社大宮司の娘・千家壽子と結婚しています。大正8年(1919)、竹中工務店を退社し、翌年にかけて、「建築に関する諸設備および住宅研究」のため欧米を視察しています。この視察には当時「住宅改良会」の顧問をつとめていた武田五一の助言があったとされ、藤井は欧米のモダニズムデザインの萌芽と最先端の建築設備に触れ影響を受けました。帰国後、京都大学通勤途中に見つけた京都府大山崎町に約1万2千坪もの山林を購入し、第二回自邸を建て移り住みます。大正末頃、医学の世界では建築学よりもいち早く住居衛生や建築環境研究の論文が発表されていました。京都大学医学部には雑誌「国民衛生」を主宰する戸田正三(後に藤井が自宅を設計)がいましたし、健康重視の世論の表れとしてラジオ体操が始まるのも昭和3年(1928)のことです。そのような気運から、日本の伝統的な住まいで経験的に行われてきた日本の気候風土にあわせる建築方法を科学的な目で捉えなおすことが、次第に藤井の大きなテーマとなります。自ら着目し理論化した環境工学の知見を設計に盛り込み、居住して実証・改善を加えながら次々と実験住宅を建てていきます。木舞壁2階建の第3回(大正12年)、土蔵壁・平屋建ての第4回(大正13年)、そして最後に木舞壁の上に土を塗りクリーム色の漆喰で仕上げた平屋建ての第5回実験住宅が聴竹居(昭和3年)です。そして実験住宅で試みた実践から真に日本の気候風土に適合した住宅のあり方を科学的に環境工学の点から考察し、『日本の住宅』(昭和3年)として著しています。終生追い求めた「日本の住宅」の近代化─ 洋風でもなく和風でもなく今から90年前に建てられた「聴竹居」は、時代を越えいつの時代にでも評価されうる「日本の住宅」としての普遍性を備えています。それはなぜでしょうか。藤井は25年間に50を越える作品を設計していますが、そのほとんどが「住宅」です。環境工学の理論書『日本の住宅』、さらに住宅設計の集大成として写真と図面で「聴竹居」平面図(左)と立面図(上) 実験住宅第三回までは二階建でしたが、関東大震災の被害を目の当たりにして、「状況が許す限り家は平家とすべきである」との持論にいたり、聴竹居は平家で計画されました。〔図版出典/『聴竹居図案集』岩波書店、1929〕5