ブックタイトルtakenakadaikudougukan-news_Vol38

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概要

takenakadaikudougukan-news_Vol38

FEATURE践の中で様々な建築設計の知識を吸収する場でした。時代的にゼツェッシオン的な傾向があったとはいえ、まだまだ様式建築に縛られ、国家の「西洋化」の意思を表出する必要があったオフィスビルよりも、欧米では既にモダニズムの萌芽が始まりデザインの自由度を増しつつあった住宅により魅力を感じたのかもしれません。後に竹中工務店を辞めた藤井は、住宅と環境工学に没頭することになります。神戸御影に現在も残る村山龍平邸和館の壮大な景観と書院や数寄屋を近代化した細部意匠へのこだわりを見ると、その設計に関わったことが、天王山につながる大山崎に約1万2千坪の土地を買い求め、次々と実験住宅・自邸を建てることを藤井に決意させたのではないかと思えます。藤井の意思を記したものは見つかっていないので、いずれも想像の域を出ないのですが、「神戸御影」と「京都大山崎」には幾つかの共通点があります。①1万坪を越える起伏ある自然のままの土地、②御影では大阪湾が、大山崎では三川(宇治川・木津川・桂川)合流が望まれる雄大な眺望が得られる土地、③六甲と大山崎の自然の水が豊かな土地などです。村山龍平邸の敷地内には、起伏に富んだ敷地を生かして建てられた河井幾次設計の洋館(明治42年)と数寄屋建築・玄庵(藪内家燕庵写し)といった第一級の建物があり、それらと対峙する形で和館の設計が進められたことも藤井に影響したと思われます。さらに決定的なのはこのプロジェクトを通じて関西の雄、建築家・武田五一(1872-1938)に出会っていることです。武田は藤井と16歳違いで、同じ福山出身。また大阪朝日新聞社社屋プロジェクトの新聞社側の顧問でした。当時京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)の図案科教授だった武田はヨーロッパで生まれたアールヌーボーやゼツェッシオンなど新しいデザインの潮流を積極的に吸収した作品を次々に発表していました。入社したての若き藤井に、油の乗り切っていた40代半ばの武田の強烈な個性は大きく影響したと思われます。そうした縁で大正8年(1920)、藤井は武田が創設した京都帝国大学工学部建築学科に講師として招かれます。「建築設備」「住宅論」「建築計画論」を担当し、翌年には助教授となります。わずか6年足らずの建設会社勤務でしたが、将来を決定づけた大阪朝日新聞社の他に橋本汽船ビル、明海ビル、十河百貨店などの設計を担当、黎明期の竹中工務店設計部の基礎を築きました。竹中工務店時代の藤井厚二 中央最前列に長男を抱いた初代社長の竹中藤右衛門、最後列中央やや右寄りに前年入社の藤井が写る(大正3年)。ちなみにこの場所が現在の竹中大工道具館である。〔写真提供/竹中工務店〕大阪朝日新聞社(1916)ゼツェッシオン風の外観に大時計の付いた塔が特徴的。地上3階、地下1階。鉄骨鉄筋コンクリート造としては最初期のもの。大阪・中之島の景観を代表する建物であったが、昭和40年代に「朝日新聞ビル」建設のため解体された。〔写真提供/竹中工務店〕4