ブックタイトルtakenakadaikudougukan-news_Vol38

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概要

takenakadaikudougukan-news_Vol38

営むかたわら円山応挙「瀑布亀」、竹内栖鳳「薫風行吟」、「御所丸茶碗」など第一級の絵画、書、茶道具を数多く所蔵しており、藤井は幼少の頃からそれらを目にしていました。その鋭い審美眼は、海と山に囲まれた福山の豊かな自然環境と、この恵まれた家庭環境によって育まれたのでしょう。福山中学、岡山の第六高等学校を経て、明治43年(1910)、建築を学ぶため東京帝国大学工学部建築学科に入学します。当時の建築学科は西洋の様式建築を学ぶ場であり、藤井の卒業設計も当然ながら様式建築でまとめられています。一方で、在学中には建築史家であり、平安神宮や築地本願寺を設計した建築家でもある伊東忠太(1867-1954)の講義から影響を受けたようです。藤井は西洋化一辺倒から脱し日本独自の様式建築を追求した伊東の思想に薫陶を受けたようで、その証として聴竹居の入口に西本願寺別院・真宗信徒生命保険会社(明治45年)のために伊東忠太がデザインした「怪獣」の彫刻が置かれています。将来を決定づけたふたつのプロジェクト─ 竹中工務店時代当時新進の建設会社として設計の近代化を急いでいた竹中工務店社長の竹中藤右衛門は藤井を三顧の礼で迎え、藤井は最初の帝大卒設計課員として入社します。そして入社間もない時期に取組んだ二つのプロジェクト、大阪朝日新聞社社屋(大正5年)と村山龍平邸和館(大正6年)が藤井の将来を決定づけることになります。前者は東京帝国大学で学んだ西洋の建築技術を遺憾なく発揮して出来上がった先進的なオフィスビル。後者は約1万坪にも及ぶ起伏ある広大な敷地の形状を存分に生かした景観と、「和風のゼツェッシオン化」が特徴的な住宅。若き藤井には、いずれも魅力的なジャンルであり、実藤井厚二の卒業設計「A Memorial Public Library」(1913)中央にドーム状のロトンダをもち、新古典主義の影響が見られるものの全体的には様式建築である。当時の卒業設計は西洋の様式建築を手がけるのが常識であった。〔 出典:『東京帝国大学工学部建築学科卒業計画図集』洪洋社、1928〕3