ブックタイトルtakenakadaikudougukan-news_Vol37

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概要

takenakadaikudougukan-news_Vol37

学技術庁は専門研究者を集めた対策委員会を設置しました。これを受けて日本建築学会は日本学術会議に意見書を提出します。この台風は洪水を起こしましたが、実は火災は起こしてない。ところがこれにかこつけて意見書の中に「火災、風水害防止のために木造禁止」という項目が入れられ、一括して開催中の建築学会近畿大会の緊急集会に提出され、出席者500人による満場一致で可決されました。この決議の影響は次々と広がりまして、都市だけではなく、郊外でも木造は不可となって、農村・漁村の小学校、官庁施設。田んぼの中にある小さな木造庁舎ですら、鉄筋コンクリートでないと建てられない。また民間がそういうものをつくろうとすると、補助金が出ない。木造にとって非常に厳しい時代に入るわけです。日本の大工ならではの打ち放し仕上げ技術一方で大工たちはどうなったのでしょうか。日本では「打ち放し」という表現が盛んになります。こんなことは現場打ちが主流だからでヨーロッパでは考えられない。丹下健三の香川県庁舎(1959)などは、プレキャストではなく、すべて現場で仮枠をつくったという話をするとかなり驚かれます。複雑なアーチなどは宮大工出身の型枠屋が作っていた。当時、宮大工たちは社寺が造れず型枠に携わっていたからこそ、こういうことができた。それが海外の評判を獲得するようになって、日本の鉄筋コンクリート造は価値を認められる。ところがそのうち団地ができてきます。団地も大工が現場で木の型枠をつくる。日本の都市は見渡す限りコンクリートで覆われるようになりましたが、そのほとんどは実物大の模型である型枠を大工につくらせていたことになる。日本中の大都市の建築の体積のほとんどが木材でまかなわれているとすれば、木材資源が枯渇するのも当たり前です。木材資源の枯渇と輸入合板の登場また64年頃になってコンクリート型枠用合板に関する研究が始まります。これは型枠用の木材が枯渇してきたので合板に変えようという動きです。合板はラワンが海外から輸入できる。その輸入合板で打ったコンクリートが、日本の杉の型枠と同じかどうかという研究です。日本に木材がなくなったのは、木造建築のためだと思われがちですが、私は鉄筋コンクリート造のためだと思っています。合板の輸入が間に合わないということは、輸出する側はどうも日本は皮をむいて合板にしているから、合板にしてから輸出する方が更にいいとなり、それよりは住宅にしてから輸出した方がもっといい、ということでツーバイフォーの輸入をさせられることになります。つまり内地材を用いた型枠が不足して、木材資源の枯渇が始まると、木材流通が変わり、外国から輸入される。その結果、材木屋はなくなり山林は荒れ果て、木造は各種の補助金制度からも遠ざかる。郊外の住宅以外には木造はなくなるという時代が訪れます。そして大学から木構造の研究や講義が無くなり、ついには、関西以西の大学には研究者がいない。日本は現代木構造の先端技術からも20年も遅れることになりました。堂宮大工の失権と復権ここで話を変えて、社寺建築のことをお話します。戦後、社寺を生業としていた大工は恵まれない状況にありました。それは1950年にできた新建築基準法から社寺建築が抜け落ちてしまったことから始まります。以後、市街地で準防火地域となると、法規的に木造の大規模社寺建築は建てられないとなる。ところがこういう法規ができたにもかかわらず当時はのどかでした。それは戦前の市街地建築物法に「社寺建築ニシテ行政官庁ノ許可ヲ受ケタルモノニ付之ヲ適用セズ」という項目があり、それで運用されると思っていたからです。しかし戦後はこの例外規定がなくなっ1962年頃の鉄筋コンクリート造の団地(出典:日本住宅公団総務部広報課編、日本住宅公団発行『1962年日本住宅公団年報』)9