ブックタイトルtakenakadaikudougukan-news_Vol37

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概要

takenakadaikudougukan-news_Vol37

私は実務体験をもとに戦後の建築界の話をいたします。戦後は鉄筋コンクリートが主流ですが、その直前にあった木造建築が全くなかったと今日認識されてるのに驚いています。実際には木造がありました。それから鉄筋コンクリートも大工がいなければできなかったという話をします。戦後復興は大工による木造建築戦後、空襲で大都市は全部焼けて何もない。住宅不足は420万戸といわれた。鉄もセメントもガラスもない。なので廃材を利用して大工につくってもらう。そういう時代が終わって、ようやく国産材による木造が復活します。日比谷の映画館や東京駅の八重洲口など。今では全く残ってませんが、全国に造られて、それがまた建て替えられていきました。当時、一番印象的なのは、前川國男の紀伊國屋書店(1947)です。このような木造でありながらコンクリート風を装うのが一つのスタイルになっていきます。そのころの木構造システムは日本独自に開発したもので、ヨーロッパの木造建築とは違っていました。まず品質管理が厳しくなく標準偏差などで選ぶことはない。乾燥も15%ということはなかったし、そんな乾燥材は入手できません。実際は大工が生木を使う方法を詳しく知っていてその範囲内で造っていた。構造は1942年、大蔵省に設置された建築研究所で開発された技術が元になったと聞いています。それが学校建築の標準設計になり、官庁営繕を通して一般建築に適用され、事務所、病院、劇場、集合住宅などに拡張されていきました。世論木造禁止に至るその後に木造禁止令が出ます。東京大学農学部の教授を務めた杉山英男先生が生涯このことを嘆いていましたが、なぜそんなことになったのでしょうか。まず空襲と関東大震災。この手痛い損害を庶民が覚えていて、最早、木造は嫌だという感覚がありました。しかし木材しか手に入らない時代には木造しか建たなかった。1949年になると鉄筋コンクリート造のアパートが建て始められる。ただし壁厚がわずか8㎝。そういうものができただけでも木造の都市を救えるとみんなが思った。これが瞬く間に普及します。山田守の長沢浄水場(1957)や菊竹清訓のスカイハウス(1958)のような建築が次々と生まれました。しかしこういう鉄筋コンクリート造は、ヨーロッパの部品化されたものを現場でつなげていく方式とは基本的に違う。日本では地震を意識しているため、現場で仮枠を造り、中にコンクリートを充填して一体にしていく。一体だからこそ、地震にもつわけですが、その背景には、現場で大工が型枠をつくれるということがありました。60年、オリンピック目前の東京駅周辺を見ると、丸ビル、新丸ビル、大丸ビル、鉄鋼会館も建ってます。戦後の焼け野原とは見違える鉄筋コンクリートの建物群。これならば都市に木造は要らないというのが、建築学会の大方の意見でした。ところが、阿佐ヶ谷、高円寺あたりには木造密集地域ができて、防災関係者にとって憂慮すべき事態になっていた。こういう状況の中で59年伊勢湾台風が起きます。甚大な爪痕を残したため、科REPORT講演会「ものづくりの近代建築史」(後)内田祥哉×藤森照信昨年開催した「近代建築 ものづくりの挑戦」記念講演会の内容を紙面にて2016年6月12日 東京大学弥生講堂 お届けします。今回は後半の内田祥哉氏の講演録です。1960年頃の東京駅周辺の様子(出典:『新建築』1959年9月号)紀伊国屋書店(写真提供:紀伊国屋書店)8