ブックタイトルtakenakadaikudougukan-news_Vol37

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概要

takenakadaikudougukan-news_Vol37

屋根屋と瓦屋―山本会長のお仕事を一言で表わす言葉はありますか。瓦かわら大だいく工かな、呼び名は。大工さんかて「宮大工」言うとるけどな、大工ちゅうたら棟梁のことや。助っ人は小工ですわ。そして瓦を作るのは瓦屋、屋根を葺くのは屋根屋。わしは屋根屋から始めて、後に瓦屋もやるようになった。―瓦の土はどこの土を使っていますか。地球の皮や(笑)。淡路、三河、岐阜が日本の三大産地やな。昔は奈良の土も使ってたんやが、時代とともに採掘や運搬方法が変わって、粘土が取れないような状況になってしもうた。以前は採掘した粘土を2年ほど雨にさらして寝かせました。また、瓦を葺く時に使う「葺ふ き土つち」というのも別にありまして、法隆寺なんかやったらね、昔は西さいいん院伽がらん藍の東側に壁土用の土つち場ばというのがあったから、藁わらすさ?を入れた土を3年も4年も寝かせとった。藁?が腐って、土が変化するまでな。そこへもち米を植えて、穫と れたのを現場の者もんみんなで餅もちついてやな。そういう壁土や葺き土は一緒のものでな、ねばい土も屋根には使われているんや。昔の屋根屋の仕事―山本さんは屋根屋として仕事を始められました。その当時はどこの瓦を使っていたのですか。それはこの地元の。二十歳ぐらいのときにはまだ在ざいしょ所(地元)に瓦屋がたくさんあったんですよ。大体一里、4キロぐらいで瓦屋が一軒ずつ。職人が5人ほどの小さい瓦屋で、達だるま磨窯がまを2つぐらい持って。牛車なんかで運べる距離のところやな。でもそういう小さな瓦屋は、みな無くなってしもうたな。―当時は瓦を葺くときの決まり事などはありましたか。屋根は日当たりの悪いところの方が早く傷いたむ。せやから屋根の寿命を均一的に永くもたそうと思うと、瓦の焼きの悪いやつは南の方に、寒い日当たりの悪い所へは良い物を使う。そのために瓦の選別をするんや。昔は達磨窯で瓦を焼いていたので、均一な瓦が焼けなかった。良う焼けてるやつと焼けていないのとで寸法が5分(15mm)ぐらい違うねん。今ならシートで屋根を雨あめ養ようじょう生するけど、当時はシートなんて無い。そんで屋根葺く前に「仮かり葺ぶ き」言うて、屋根の上全面に瓦を仮並べしとったんや。そんで割わりつけ付すんのに、それをめくって選別するわけや。屋根の上でやってたんや。良う焼けたやつと焼けていないのと、ふつう位のと、三さん手て ぐらいに分けとった。ガリガリ言うとるやつは良う焼けとるやつや。大きさもいちいち測ってないんやで。手て 触ざわりで分かる。それが熟練や。―当時は瓦の選別や割付は全て感覚で判断されていたのですね。そう。結局みな勘ばっかりでやっとった。聞いた話によると、井上新太郎さんの叔父の松太郎さんが30歳の時、瓦大工棟梁として東大寺大仏殿の明治修理をされた際、三河の職人と、奈良や大阪の職人とで、東西半分に割って仕事したそうや。その時、三河の職人は下で瓦を選別しながら、ずうっと番付を入れとった。奈良とか大阪の職人は、もういきなり瓦を屋根の上に揚げて、葺いとったみたいで。何日たっても三河の方は上へ上がってけえへんし、奈良の職人は安心しとったわけや。ところが三河の職人も上へ上がって来るようになってきたらバタバタっとやってしもうた。急勾配のところで、瓦をあっちやりこっちやりしとったら、もう仕事にならんわけやね。文化財との出会い―文化財の施工に携わる様になったのはどの様なきっかけがあったのですか。二十歳の時、斑いかるが鳩の町役場が木造でね、お寺のような屋根の建物で建ったんですよ。その屋根工事を清水房次郎さんが「勉強のために葺いてみいひんか」と言うてくれて。それでやってみると、どうしても分かりにく東大寺大仏殿修理 降り棟の鬼瓦と山本清一氏(昭和47年頃)インタビューFEATURE山本清一さんi n t e r v i ew4